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ナチス・ドイツとソヴィエト連邦が締結した

1939年8月、ナチス・ドイツとソヴィエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土は再び両国に分割されることになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始し、ポーランドをドイツ、ソ連、リトアニアの三国で分割占領した。ポーランド政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。

1945年、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、英・米・ソのヤルタ会談に基づいて国境が定められ、領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド東部を自国に併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。

この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、赤軍の進攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも強制移住によりポーランド国外へ退去されられた(ドイツ人追放)。共産主義政権により民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ただしソビエト連邦におけるような農業集団化はおこなわれなかった。

一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域ではポーランド系住民が国境変更にともない、120万人が退去してポーランドに移住してきた。

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2008年12月16日 12:43に投稿されたエントリーのページです。

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